老人力
老人力
霊源院の水子供養へお越しの年齢層はやはり若い世代のお方が多いですが、お年を召された高齢のお方も随分とお越しになられます。
何十年も前にお亡くなりの赤ちゃんのお供養へお越しのお方も決して珍しくはありません。
それもお亡くなりの赤ちゃんへの深い想いを感じさせて頂くお手合わせが多いです。
そして、人生の先輩としてお供養の終わりました後、気さくに語って下さる方が多いのです。
その年輪の重みから発せられるお言葉は時に「ハッ」と致す重みのある言葉に出会います。さて、今日はこの老人力の事を少しお話し致します。
「しわがよる、ほくろがでける、腰曲がる、頭がはげる、ひげ白くなる」
「手はふるう、足はよろつく、歯は抜ける、」
「耳は聞こえず。目は疎くなる、」
「身に添うは頭巾襟巻杖眼鏡」
「たんぼ(湯たんぽ)、温石、しゅびん、孫の手」
これは江戸時代の禅僧「仙崖(せんがい和尚)の「老人の六歌仙」という歌の一節です。
耳障りですが上手く言い当てていますね。しわくちゃになり目も耳も遠くなった。
人間はどなたも年を重ねますとその機能の衰えは如何ともしがたいものです。
でも、心の持ちようでは生き方が変わるぞよと仙崖和尚は語っています。
「老人力」という言葉は赤瀬川源平さんという作家で画家のお方が提唱なされている言葉です。
何も特別な力があるという事を述べているわけではありません。
歳を重ねますと例えば「物忘れ」が多くなりますが、それをマイナスと考えずに「忘れる力が付いた」と考えるそうです。
物に拘らない、くよくよしない、或いはゆったりしている、昔の良いことだけを覚えているなどを年を重ねて来るに従い現れれてくる特徴を「善い」方に解釈しそれを老人が持つ「力」と考えれば如何かとの考えだそうです。
何かにつけあくせくし、経験の少なさで急ぎ物事を判断し、失敗しがちな若年層よりはるかに「力」に満ちているのではないか。
年齢を重ね、体力が落ちて行くことも含め、「自然」のまま日々を暮すことが大切ではないかと提唱なされています。
禅の世界では「あるがままの自己」と表現致しそれの実現に向かうことも修行の大きな眼目とされています。
ものは考えようです。
衰えることは悪いことだと考えがちな私たちに新しい発想を示してくれているように思います。
近年、老いに対して内向きになり、閉じこもったり、最悪「自死」を選択なさる方さえおられるとも聞きます。
寧ろ高齢の方々よりも、怖いものなしに元気にお過ごしの方々に耳を止めて頂けたらばと思う言葉です。
かくいう私も老眼鏡が無ければ新聞は読めず、新聞や雑誌の小さな記事にはあまり目を通すことが減りました。
しかし、そういたしているうちに何だか、細かいことを気にせず、大きな心で物事を見ている自分に合う時が有ります。
勿論、加齢は良きことばかりでは有りまん、しかしマイナス一辺倒だけの想いからは抜け出れそうな気が致します。
水子供養にてご縁を頂きました高齢の皆さんの重いお言葉に感謝です。合掌