妄執(もうしゅう)に囚われない心
妄執(もうしゅう)に囚われない心
水子供養へお越しの皆さんとの接点の多くは先ずはお亡くなりの赤ちゃんへご回向を届け、共にお手合わせ致すことです。
お供養が終わりました後、供養を自分で継続致すこと、或いはご自宅で供養を継続致す方法などの問い合わせ、そして、稀ですが、自身の「想いの丈」を語られる方がおられます。
法要の間、一心にお手合わせをいたしながらも、涙を流され、堪えておられるお方がいます。
男女を問いません。
お経を聞きながら、感情が高まるのでしょうか、その想いは此方へも伝わって参ります。
私が全く存じ上げない個々の事情、こんがらがったお二人の経緯。
それや、これやの想いが込み上げてくるのです。
本堂のお勤めが終わり、蓮華堂へ移動の後の法要の終わり、皆さんの赤ちゃんへのお供え、自分と同じ思いの方々が多いと想像をなさるのでしょうか、蓮華堂では本堂での法要の間以上に自身の感情が高ぶることがあるようです。
水子供養が終わり、御礼を頂戴致し、別れ際、「堰を切ったように語られる方がおられます」。
お声掛け下さり、相談下さいますことは僧侶として本望ですので、有難くお相手をさせて頂きます。
勿論、私が具体的にその方の辛さを直ぐに解消できるわけではありませんが、とにかくお話しを聞かさせて頂くことで、少しでも関われればと思っています。
その様な中で折々に聞く話として、お付き合いなされていた方と別離なされ、日々を過ごす中でその別離が辛く、お相手への執着から解放されない辛さを語られる方がおられます。
その辛さがよくよく伝わり、此方も胸が詰まることがありました。
少しでも早くその辛さから解放されますことを願うばかりでした。
さて、妄執(もうしゅう)という言葉をご存知でしょうか。
迷妄の執念、妄執。
善悪の分別なくただ一つの物事に執着する。思い込んで離れぬ迷いの心。
男女の事に限らず、どなたにも思い当たることではないでしょうか。
私も耳に痛い言葉です。
禅の言葉に「名利共休」(みょうりともにきゅうす)という言葉が有ります。
名誉や利益を追い求める心。
これらは人が持つ欲の中でも特に強く、人が道を誤り、ニュースで報道されるような事件を起こしてしまう事すらあります。
簡単に人の目をくらませてしまう、こうした欲望が無くなれば、心の葛藤や争いごとのほとんどは消えていきます。
只、名声もお金も必要の無い境地へ至ることは本当に難しいものです。
しかし、この言葉を思いだすことで自分を惑わせたものの正体や、妄執に捉われた心に気づくきっかけになります。
男女の関係も含め、迷いが発生致しました時は、立ち止まり、頭の中で唱えて見て下さい。さて、このブログを書いている間も、時時として台風が日本列島をせっかんいたしています。
相当に大きな台風との報道です。
私たちの住む関西への影響は明日以降のようですが、各地に被害が出ませぬことを祈念致しますと共に、どうか近畿も無事にやり過ごせることを希求致しています。合掌