11月も終わりですね。
11月も終わりですね。
愈々、11月も終わり、気ぜわしい季節が近づいて来ました。
今年の残りの暦、2ヶ月も充実致し、暮らしたいものです。
さて、時がうつろう様は、「諸行無常」(しょぎょうむじょう)という言葉で代表されると思います。
毎日、毎年、同じように日々の始まりをお正月に感じ、その年の終わりを、大晦日に感じるのは、どなたもご一緒かと思います。
しかし、同じ日々、同じ年を重ねているようですが、ご年配、お若い方々の区別なく、同じ日、同じ年はありません。
誰しも年齢を重ねていることは了解なされていますが、私も含め、自分、そして周りの人々も常に変化致しているというその事実は時として忘却致していることがあるのではないでしょうか。
先に掲げた、「諸行無常」の言葉と共に、鴨長明(かものちょうめい))の言葉であったと思いますが「行く川の流れは絶えずして、しかも、元の水に非ず」という言葉が身に染みます。
流れている川の流れが絶えることは無いが、水は流れ、同じ水はそこには無いよという意味かと思います。
この言葉をよく噛みしめて、積み上げている「時」を今以上に大切に致さねばならぬと、年を重ねる度ごとに思うことです。
私がお守りさせて頂いている霊源院は禅宗のお寺です。
禅宗のお寺の住職を拝命致す為には、所謂、専門道場という所で、一定期間の間、修行を致さねばなりませ。
それは、お寺に生まれた子供も同様で、必ず、道場で学びます。
私の息子二人も、お陰様で無事に道場の学びを終えて、現在は、さる会社にご縁を頂いて、一生懸命に励んでいます。
彼らも、道場へ入門致した時に、先輩から言われたと思いますが、入門時に道場の先生、先輩から必ず言われる言葉があります。
それは、「興禅大燈国師」という方が、後世の修行僧へ向けた言葉ですが、「光陰矢の如し、謹んで雑用心すること勿れ」(こういんやのごとし、つつしんで、ぞうようじんすることなかれ)です。
(日の過行く様は弓から放たれた矢が飛ぶ如きに早く過ぎ去るぞよ、くれぐれも、雑用心(うかうかとした用心では間に合わぬぞ)という意味です。
私も含め、水子供養へお越しの、比較的年配の皆様方は日の経つ早さは十分に了解のことと存じますが、若年層の皆さんはまだまだ、大丈夫のようなお気持ちのお方もおられるやとも思います。
しかし乍ら、先に述べましたように油断はいけません。
ご自身方の人生を大事に致すという想いにて、くれぐれも過行く時間を侮らずに、日々をお過ごし頂きたく願います。
お供養に向かう姿勢は「懇ろに」ということを忘れぬようにと願います。
霊源院へ水子供養へお越しの皆さんとご縁をお繋ぎ頂き感じますことの一つに、お亡くなりの赤ちゃんへの想いが「懇ろに」という想いと共にあると感じています。
先ずは、お供養を致している時の、合掌、礼拝、そして、お焼香、共にお亡くなりの赤ちゃんへの深い追慕の想いを感じますと共に、「懇ろ」にというお気持ちに裏付けされていると強く感じさせて頂く時が多くあります。
又、蓮華堂、絆縁堂へ奉安のご自身の地蔵尊へのお供え、そして、手作りのご自身の地蔵尊へ着せていらっしゃる服、こちらを拝見致しましても、「懇ろに」という想いをやはり、強く感じます。
だからこそ、ご自身方の想いが必ず、赤ちゃんへ「届いている」と感じるのでしょうか。
様々な事情はあろうかとは思いますが、時折、お電話にて、「本尊さんへ手合わせのみ」で良いかとの問い合わせを頂くことが、稀にあります。
手合わせは勿論、頂いたら良いのですが、その時に「懇ろ」の意味を、是非、思い起こして頂きたく願います。
愈々、寒い日が増えて参りました、インフルエンザの流行、コロナも未だ、油断出来ません。
日々の体調管理を怠らずに、今年の残りの日々を過ごして行きたいですね。合掌