手間のかかることの意味。
手間のかかることの意味。
私たちの住んでいる都市部、京都に限らないと思いますが、日本中の何処にもコンビニが隈なくあり、日用雑貨に止まらず、一日の食事を賄う、お弁当、お惣菜が常にあります。これ程の利便性が他の国にもあるのかは存じませんが、恐ろしく便利であることは間違いありません。
私が若いころのコンビニと言えば、セブンイレブンに代表される朝7時から夜11時迄開いている便利なお店、お弁当もあり。その代わり、間違いなくそのお弁当は美味しくなく、時間の節約、利便性が全てでした。
それでも、これ程の便利さは無いと思っていましたら、営業時間は24時間となり、お弁当に限らず、総菜の質も上がり、朝ご飯、昼ごはん、晩御飯の区別なく皆さんがご利用なさるほどの充実が現実となっています。
水子供養へお越しの皆さんがお越しの前に、お亡くなりの赤ちゃんへのお供えを御用意頂くことに限りましても、コンビニで、赤ちゃんが喜んで下さるお菓子、お花が購入され、お供えされていることが解ります。
もちろん、お供えの皆さんのお気持ちは赤ちゃんへ伝わっていますのでそのことに問題は全くありません。
この便利さはそのまま問題なく、受け入れば良いとは思います。
しかし、過日思うことがありました。
蓮華堂へ、水子さんのお供養へお越しのお方様と参りまして、お勤めを致し、お供えに目を移しますと、サランラップに包まれた、「手作りのおにぎり、おかず」がお供えされていました。
御本尊、地蔵尊の前に山のようにお供えのお供物の中で、ひときわ輝くお供えでした。
もちろん、生ものですので、他のお供えのように長くはおいて置けませんが、お亡くなりの大事な赤ちゃんが美味しく召し上がることが想像でき、何とも暖かい気持ちとなりました。
十分に年を重ねた私でさえ、スマホを含め、日々の生活を思い起こしますと、びっくり致すほど日々の生活は便利になり、求めるものは、ほぼ、お店に揃っています。
もちろんそれを頂く為には経済的な裏付けは必要なのですが、それでも、サービスを提供下さる方々の下支えがあってこそなのですが、この便利さには驚きです。
そんな中、先にお話を申し上げました「おにぎり」のことに通じますが、私は日々自分の朝、昼、晩の食事は自分で用意致し、頂戴致しています。
お参りに出ましたり、忙しい時は外で外食、或いは、お店の出来合いの食材にて済ますこともありますが、基本は自分で食事の材料を購入致し、様々なレシピを参考に作り、頂いています。
その、自分で用意致した食事にて、夜に頂く晩酌は又、格別です。
便利さの中の自分に埋もれづに、時間の許す限り、自分で食事の用意を致すことで、この食事を用意致す為に関わっておられる皆さんを想像致し、今生きているこの「私」は様々な皆さんのご縁にてあるのだということを感じさせて頂けます。
便利に暮らせる世の中には心から感謝致しますと共に、時には、様々な手間を惜しまずに、日々の行いを面倒がらずに致すことで、多くの皆さんから支えられて生きている「この私」を忘れぬように致したいものです。
中東の悲しいニュースが辛いですね。
今朝の新聞の報道の中東の戦争が辛すぎます、京都には多くの海外の皆さんが観光にお越しになられ、楽し気に観光なされています。日本、京都にお越しになられ、喜びを感じて下さることは、東福寺にも多くの皆さんがお越し下さるので嬉しいのですが、その同じ日に、中東のイスラエル辺では戦争が起き、多くの善良な市民の方々が酷い被害に会い、亡くなっています。あまりの落差に驚くと共に、その有り様が受け入れがたいです。
単純な話ではないとは思いますが、先ずは皆さんが平穏な暮らしを望んでいることは間違いありません。
とにかく、どちらにも平穏な暮らしが早く、実現致すことを、心から願いたく思います。合掌