諦められないことに向き合った時。
諦められないことに向き合った時。
過日、本当に仲の良さそうなご夫婦が巡り会えなかった赤ちゃんと縁を結べずに、お亡くなりの赤ちゃんのお供養へお越し下さいました。
何時ものように本堂、蓮華堂と順にお参り頂き、無事にご自身方の地蔵尊を奉納頂きました。
蓮華堂で地蔵尊が奉納されますと、思いの丈を吐き出すようにお供えしきれない程の多くの玩具、お菓子のお供えを袋から出し始めました。
私は次のお供養のお方との約束がありましたので、ご縁をお繋ぎ頂きましたことへの御礼を申し上げ、「新たに赤ちゃんを授かられましたら、是非、元気に会えるよう願掛けを兼ねてお参り下さいね」と申しあげました。そして、ゆっくりお参り、お供え下さいと申し上げますと、「供養は終わりましたが、会えなかった赤ちゃんへの思いが増すばかりですと」奥さんが申されました。
お気持ちは勿論解りましたが、「少しずつ元気を出して下さいね」としか申し上げることは出来ませんでした。
お二人とはそこでお別れ致しましたが、後に、「諦める」という禅語を思い起こしました。
この諦めるという言葉、日々の中での使われ方はどちらかと言いますと、後ろ向きの姿勢を示す言葉として使われていると思います。
確かに、どうにもならないからあきらめるしかない、「しかない」というイメージかと思います。
勿論、使い方として間違ってはいません。
しかし、禅語として見ました時は、「諦める」の語源は仏教の言葉「明らむ(明らかににする)という言葉になります。
この言葉は、この私が突き当たっているこの事象に対して、その原因も含め、真摯に向き合い、対処致すという前向きな意味を持ちます。
そういう意味では普段使われている意味と違い、非常に「ポジテブ」な意味を持つのです。
冷静に今の自分を見つめ、これからどうあるべきかを問う言葉なのです。
先にお話いたしました、赤ちゃんを亡くされた奥さんの悲しみは当然なことと思い、諦めきれないというその気持も又、本当に解ります。
しかし、残念ですが亡くなられたことは事実として受け止め、供養を致す中でお亡くなりの赤ちゃんへの思いは収まりをつけて行き、これから授かるであろう新しい命への巡り会いを祈念致し、日々の暮らしをパートナーと過ごされて行くことが、この事実を「明らむ」、諦めるということに繋がるのではないでしょうか
そして新たな命と巡り会えました時は、お亡くなりの赤ちゃんと共に二人分の愛情を込めて育てられましたら、お亡くなりの赤ちゃんへの何よりの供養となるのではないでしょうか。
今日は温かく、幸せな一日でした。
1月24日に降りました大雪、今日に至りましても、お寺の客殿、西側に根雪が残っていました。毎日、本堂へお参りに行くたびに、残っている雪を見る日々でした。
今日はストーブがいらないくらい、暖かい日となりました。心からこの温かさに感謝致しました。
そして、さすがに残っていた雪も跡形もなく消えました。
しかし、この暖かさは、おそらくは束の間です、来月のお彼岸迄はまだまだ寒い日が続くと思わなければなりません。
身体が寒さに少しなれてはおりますが、皆様、十分に油断せずにお過ごし頂く事、祈願致します。合掌